|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7〜8世紀 サラセン人と闇の時代(Sarasins et Période d'ombre)ローマ帝国の支配が弱まってきた頃、イベリア半島からサラセン人(Sarasins)が地中海沿岸全域に侵攻して、フランス全土を1世紀に渡り占領していました。「サラセン人」とは、これ以降18世紀まで、アラブ人(Arabes)、ベルベル人(Berbères)、ムーア人(Maures)、チュルク人(Turcs)といった、フランス国土を侵略したイスラム教徒の総称として使われるようになりました。 711年、イベリア半島の西ゴート王国を征服したイスラム帝国(ウマイア朝)がピレネー山脈を超え、フランク国内に侵入。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク宮宰シャルル・マーテル(Charle-Martel,688?〜741)がこれを撃破します。 サラセン人によって破壊の限りが尽くされ、この時代の遺跡や文書がほとんど残されていないため「闇の時代」といわれていますが、その一方、サラセン人が当時最先端の薬草医学や松の種の活用法をもたらしたことも見落とせません。カマルグの名物となっている白馬も、サラセン人の置き土産とされています。 9〜11世紀 封建制の成立(Féodalité)フランク王国が分裂し強力な支配者が不在になると、北からヴァイキングのノルマン人が侵攻してノルマンディー公国を建国、東からは騎馬民族のマジャール人が西ヨーロッパ世界を脅かし、混乱と無秩序の時代となります。10世紀以降、領主権をめぐる争いが絶えなくなり、自衛の必要にせまられた領主間の主従関係(国王-諸候-騎士)の上に封建制が成立します。
この頃、ムーア人の侵略から身を守るため、村々は高いところに作られて城塞化し、畑は痩せ細りました。一方、村の拡大にともなって、フランス南部においてオック語(Langue d'Oc/Occitan)が発達し、プロヴァンスもオック語圏となりました。ちなみにオックとは、はい(現代フランス語のOui)にあたる単語のことで、北方フランスではオイル(Oil)といったことからオイル語と言います。大まかに言うと、フランスの中央山塊でこの2つの言語はわかれていたようです。 11〜12世紀 ロマネスク建築(Églises
romanes)
|
1119年 | 十字軍の高まりとともに、聖地巡礼の保護と聖母防衛を目的にテンプル騎士団が創設され、諸候の寄進を受け、プロヴァンスを初め、フランス各地に支部が設けられました。(参考書籍「テンプル騎士団の謎」) |
1125年 | 相続争いから、トゥールーズ伯にデュランス川以北のコンタ・ヴネサンとフォルカルキエが割譲され、プロヴァンス侯となりました。 |
1148年 | 清貧をモットーとするシトー派によりセナンク修道院建設 |
1160年 | バルセロナ・プロヴァンス伯がアラゴン王として即位 |
1181年 | プロヴァンス伯に従属していたオランジュ伯領が公国として格上げ。 第一回アルビジョワ十字軍 |
1190年 | アヴィニョンのサンベネゼ橋完成 |
1246年、フランス王ルイ9世の弟シャルル(Charles d'Anjou、アンジュー公・メーヌ公)と
プロヴァンス伯ベアトリスの婚姻よって、プロヴァンスはカペー・アンジュー家の所領となり、フランス国王の勢力下となります(〜1481年)。
安定と繁栄の時期を迎えますが、シャルル・ダンジューはナポリ王への野心に燃え、以降、歴代の当主においても、プロヴァンス経営は二の次になりました。
ちなみに、プロヴァンス伯・フォルカルキエ伯レーモン・ベレンゲール4世とベアトリス・ド・サヴォワ(Béatrice de Savoie)の娘たちが、次々に各国の王妃となります。長女マルグリットが聖王ルイ9世、次女エレアノールがイングランド王ヘンリー3世、3女サンチアがコーンウォール伯リチャード(一時的にドイツ王)、4女ベアトリスがシャルル・ダンジュー(シチリア王)に嫁ぎ、「プロヴァンスの4姉妹」と呼ばれました。
「紋章にみるプロヴァンスの歴史」に詳説
1209年 1226年 |
法王イノンケンティウス3世の異端カタリ派討伐の命によるアルビジョワ十字軍で、フランス王フィリップ2世が、異端を庇護したトゥールーズ伯とベジェ・カルカソンヌ伯の領地に侵攻・没収し、ローヌ河対岸のラングドックまで王権を広げます。 (小説「オクシタニア(上・下)」参照) |
1229年 | 聖王ルイ9世とトゥールーズ伯レーモン7世の協定によりアルビジョア十字軍が終結。 同年、プロヴァンス伯レーモン・ベレンゲール4世(Raymond Bernguer IV)の長女マルグリット(Marguerite)、聖王ルイ9世と結婚。 |
1236年 | 次女エレアノール(Eleanor)、イングランド王ヘンリー3世(King Henry III of England)と結婚。 |
1243年 | 3女サンチア(Sancie)、コーンウォール伯リチャード(Richard,Earl of Cornwall、ヘンリー3世の弟、一時的にドイツ王)と結婚。 |
1246年 | 前年に死去した父(レーモン・ベレンゲール4世)からプロヴァンス伯を継承した4女ベアトリス(Beatrice)、フランス王ルイ9世の弟アンジュー公シャルル(Charles d'Anjou)と結婚。 |
1248年 | 〜54年、聖王ルイ9世(Saint Louis IX)が、エグモルト(Aigues-Mortes)から第6次十字軍(CROISADE)でエジプト遠征に出航し、1270年、第7次十字軍のチュニス攻撃のさなか病没しました。十字軍は失敗しましたが、エグモルトは14世紀まで商港として発展しました。 |
1308年 | グリマルディ家によって、モナコがジェノヴァ共和国から独立。 |
1309年 | フランス王フィリップ4世が教皇クレメンス5世をアヴィニョンに動座(アヴィニョン捕囚、〜1377年)。 |
1312年 | フランス王フィリップ4世は強大化したテンプル騎士団を弾圧し、これを解体して莫大な財産を没収しました。 |
1348年 | 〜50年、黒死病(ペスト)大流行 |
1349年 | ドフィネ地方成立 |
1382年 | カぺー・アンジュー家プロヴァンス伯ジャンヌが殺されると、激しい相続争いの末、フランス王シャルル5世の甥のヴァロワ・アンジュー家ルイ2世がプロヴァンス領を引き継ぎます(〜1482年)。 |
1388年 | ニースを中心としたヴァール川以東のプロヴァンスが、先の家督争いに嫌気がさして、地中海への野心を持つサヴォワ伯(神聖ローマ帝国の封建家臣)の庇護下に走り、「新しいプロヴァンスの土地」となり、1526年、「ニース伯爵領」と命名されました。 |
15世紀になると、ルネッサンスの庇護者でもあったルネ善良王(レナート)の善政下で、プロヴァンス伯領の首都エクサンプロヴァンスと城下町タラスコンが芸術の中心として繁栄し、プロヴァンスの黄金時代が到来します。その跡をついだシャルル3世には子がなく、死後はフランス王国へ併合されました。16世紀にはフランス語の使用が義務化され、プロヴァンス語と文化は衰退していきます。また、宗教戦争やペストの流行で、プロヴァンスは再び闇の時代を迎えます。
1409年 | エクスに大学が創設 |
1426年 | 難攻不落をうたわれたレ・ボーがついに陥落、プロヴァンス伯領に吸収。 |
1434年 | ルネ善良王即位(〜80年)。 |
1482年 | プロヴァンス伯シャルル3世の遺言により、ルイ11世のフランス王国へ正式に併合。 エクスに議会を持ち、フランス王に任命される非世襲の統治者を持つ一地方となった。 農業と産業が発展して、海港マルセイユが繁栄。 |
1501年 | エクスに議会が作られ、1539年の「ヴィレー・コトゥレの勅令」によって、行政文書にプロヴァンス語に代わってフランス語を用いるようになり、それまで日常生活に使われ独自の文学を育てたプロヴァンス語が脇へ追いやられて、独自の文化も影が薄くなりました |
1562〜98年 | 宗教戦争では、マルセイユを中心とした地中海沿岸のカトリックと、ニームを中心としたローヌ西岸のプロテンスタントの間で、殺りくと報復が繰り返され、教会も破壊・略奪の対象になりました。 |
1503年 | ノストラダムスがサン・レミで誕生(〜1566年) →映画「ノストラダムス」参照 |
1588年 | 1629、1720年、黒死病(ペスト)の大流行。特に1720〜22年において、38000人が死亡。 |
1524年 | 〜28年、マルセイユ湾のイフ島にシャトーディフ築城 |
1624年 | 領土拡張を推し進めるフランス王ルイ13世が、対スペインの戦功として、モナコ大公にレ・ボーを割譲 |
17世紀 | ルイ14世がトゥーロンを軍港とし、重要な軍事基地とする。 |
1713年 | オランジュ公国がフランス王国に統合 |
1774年 | マルキ・ド・サド(1740〜1814年)が、ラコスト(La Coste)およびマザン(Mazan)の領主となる(〜78年)。 |
フランス革命では、立憲王政派ミラボー(Mirabeau,1791年没)や、トゥーロンを拠点としたジロンド穏健共和派と、1792年に「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」を歌ってパリまで行進した義勇兵に代表される革命推進派の、ブルジョワジーと市民の意見にわかれました。このとき、不満が爆発した民衆によって、アヴィニョン教皇庁は外壁を残して徹底的に破壊されました。
1790年 | 国民議会により、プロヴァンス地方は解体され、「ブッシュ・デュ・ローヌ(Bouches-du-Rhône)」と「ヴァール(Var)」と「バス・アルプ(Basses-Alpes、現オート・プロヴァンス県)」の3県にわけられました。また、ドーフィネ地方が解体され、「オート・ザルプ(Hautes-Alpes)」ほか2県(ドローム、イゼール)が作られました。 |
1791年 | コンタ・ヴネサン教皇領とアヴィニョン、およびモナコ公国領だったレ・ボーがフランス王国に統合 |
1793年 | 革命フランスは、ブシュ・デュ・ローヌ県のアプトとオランジュの両地区に、コンタ・ヴネサン旧領とオランジュ旧領を加えて「ヴォークリューズ県(Vaucluse)」を、サルディーニャ王国領のニースとモナコ公国を占領して「アルプ・マリティム県(Alpes-Maritimes)」を新設。 |
ナポレオンが、フランス革命軍砲兵士官として、反革命陣営の拠点であったトゥーロン港を奪回し、名を挙げました。 | |
1803年 | ニース・モナコ間に大断崖道路「グラン・コルニッシュGrand Corniche」が敷設 |
1814年 | パリ条約によって、ニースは、サヴォワやピエモンテとともに、サルディーニャ王に返還。 |
1815年 | 失脚したナポレオンが、幽閉されたエルバ島を脱出し、カンヌに上陸。再度の皇帝即位を目指すナポレオンが、400人余の兵士を伴ってグルノーブルを占拠し、パリへと向かいました(このルートは後に「ナポレオン街道」として整備されました)。結局ワーテルローの戦いで破れてセントヘレナ島に流され、「百日天下」といわれました。 |
鉄道の開通や東方貿易の成功により、再び平和な時代が戻りました。
1830年 | ニースに、避寒在留イギリス貴族らの出資によって、「プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の散歩道)」が完成 |
1839年 | セザンヌがエクスで誕生(〜1906) |
1848年 | マルセイユ・アヴィニョン間に鉄道開通 |
1854年 | 作家ミストラル(Fréderic
MISTRAL)が、フェリブリージュ(F»librige)というオック語保存運動を提唱し、オバネル(Théodore
AUBANEL,1829-86)、ルマニーユ(ROUMANILLE)、ファーブル(Jean-Henri
FABRE)といった作家や文化人らの尽力によって、共通言語としてのフランス語(北方オイル語系)に対するプロヴァンス文化保存への動きが活発になり、現在もアルプスからピレネー一帯の地域で続けられています。 >>「プロヴァンスの生活・方言」に詳説 |
1860年 | サヴォワおよびニース伯爵領が、トリノ条約により、イタリア統一を目指すサルディーニャ王国から第二帝政フランスに割譲。 ヴァール県のグラースとサン・ポール・ド・ヴァンスの両地区と合わせて、「アルプ・マリティム県(Alpes-Maritimes)」が復活 |
1861年 | マントンとロックブリュンヌがモナコ公国からフランスに割譲 |
1865年 | モナコのカジノ開業 |
1869年 | ドーデが「風車小屋便り」を執筆 |
1888年 | ゴッホがアルルに到着。 →映画「ゴッホ」参照 ステフェン・リエジャールが地中海岸を「コートダジュール(紺碧海岸)」と命名。 観光業の発展 |
1895年 | リュミエール兄弟が、マルセイユ近郊のラ・シオタで映画を世界初上演 |
1896年 | ミストラルが、アルルに郷土民俗資料を集めたアルラタン博物館(Museon Arlatan)を創立 |
1899年 | マルセイユにサッカークラブ「オランピック・ド・マルセイユ」が創設 |
1904年 | ミストラルが「ミレイオ」(プロヴァンス語叙事詩)でノーベル文学賞を受賞。 その賞金で、アルラタン博物館が完成。 ニースにサッカークラブ「OGCニース」が創設 |
1910年 | ラ・シオタにて、ペタンクが発祥 |
1912年 | ニースにホテル・ネグレスコ建設 |
1924年 | モナコにサッカークラブ「ASモナコ」が創設 |
1932年 | カンヌからグルノーブルへの約350kmを「ナポレオン街道」(国道85号線)として整備・建設。 |
1936年 | ワイン「シャトーヌフ・デュ・パープ」がAOC認定 |
1937年 | ワイン「コート・ドゥ・ローヌ」がAOC認定 |
1942年 | 4月28日、マルセイユがナチス占領下から解放されて、文化と芸術が再び花開きました。 |
1946年 | 第一回カンヌ映画祭開催 |
1947年 | タンドTendeとラ・ブリグLa Brigue がイタリアより割譲 |
1956年 | モナコ公レニエ3世とグレース・ケリー結婚 |
1964年 | 地方分権化政策のもと、地中海沿岸南東部の県を集めて、新しい地域圏「プロヴァンス・コルス・コートダジュール(PCCA)」が作られた |
1970年 | マルセイユ・パリ間を結ぶ国道A6-A7線が開通。 コルシカ独立主義者の要求運動により、コルシカが単独地域圏に。 PCCAは残りの県で「プロヴァンス・アルプ・コートダジュール地域圏(PACA)」となった |
1973年 | ムージャンにてピカソ没(享年92歳) →映画「サヴァイビング・ピカソ」参照 |
1974年 | プロヴァンス・アルプス・コートダジュール地方議会が成立 |
1977年 | ワイン「コート・ド・プロヴァンス」がAOC認定 |
1981年 | マルセイユ・パリ間を結ぶTGV開通 |
1989年 | ピーター・メイル「南仏プロヴァンスの12ヵ月」のベストセラーにより、プロヴァンスブーム到来 |
1993年 | オランピック・ド・マルセイユがヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ優勝(フランス勢初) |
1999年 | 12月1日より、PACA地域圏の紋章を正式採用 |
2001年 | TGV地中海線開通 |
2004年 | ASモナコがヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグ準優勝、オランピック・ド・マルセイユがUEFAカップ準優勝。 |
2010年 | オランピック・ド・マルセイユが18年ぶり9度目のリーグ優勝、カップと合わせて二冠。 |
現在は、地中海沿岸域とローヌ河流域では人口集中現象が起きる一方、内陸の農村部では深刻な過疎化が進んでいます。工業、農業、貿易、観光が主な産業となっています。
オススメ図書 |
プロヴァンス 歴史と印象派の旅 | ||
牟田口 義郎、佐々木 綾子、佐々木 三雄 |
新潮社 とんぼの本 | |
タイトル通り、第一章がプロヴァンス各都市の歴史(オランジュ、アヴィニョン、ポン・デュ・ガール、ニーム、エーグ・モルト、グロー・デュ・ロワ、サント・マリー、アルル、レ・ボー、サン・レミ、エクス、マルセイユ、コート・ダジュール)、第二章が印象派の足跡(アヴィニョン、アルル、サン・レミ、モンペリエ、マルセイユ、エクス、サン・トロペ、カネ、ヴァロリス、アンティーブ、ビオット、カーニュ、サン・ポール、ヴァンス、ニース、ヴィルフランシュ、マントン、ボルディゲラ)を追う旅になっていて、写真は少々古く感じるが、文章が読みものとして興味深くとてもためになり、プロヴァンス旅行が待ち遠しくなる。 |
フランス世界遺産の旅 Voyage du patrimoine mondial de France | ||
山田 和子 | 小学館 | |
美しい写真と詳しい文章で、フランス世界遺産全28か所を巡る旅行ガイド。主要地図・アクセス情報入り。 |
プロヴァンス 碧い海と碧い空と… | ||
田辺 保 | 恒星出版 | |
大阪市立大学名誉教授の著者が、前半部分では「ローマ時代」「キリスト教伝来」「中世」といった歴史や、後半部分では「ペトラルカ」「ミストラル」「ドーデ」「パニョル」「ジオノ」といった文学者などを通して、プロヴァンスの魅力を丁寧に紹介。 |
地中海歴史回廊 | ||
牟田口 義郎 | ちくま学芸文庫 | |
ヨーロッパ、アフリカ、アジアの三大陸に囲まれた地中海は、人類の歴史そのもの。本著は、中近東現代史・地中海文化史の大家の、半世紀に及ぶ体験を集めた歴史エッセー。イベリア、マグレブ、イタリア、ギリシア、トルコ、シリア、エジプトとともに、プロヴァンスについても50ページほど割かれている。 |
ケルト文明とローマ帝国 ガリア戦記の舞台 | ||
フランソワーズ・ベック&エレーヌ・シュー (著)、遠藤ゆかり (翻訳)、鶴岡真弓 (監修) | 創元社 | |
フランス地中海沿岸一帯は、イタリア半島とイベリア半島を結ぶ重要な回廊「ヒスパニアの通り道」として、カエサルのガリア侵攻よりずっと前からローマの支配下にあった。だから、現在のプロヴァンスにはアヴィニョン、アルル、エクス、マルセイユなど多数のローマ遺跡が残されているし、プロヴァンスと言う名前自体にも名残りを見せるほどに、ローマ色がひときわ濃く、日常の中に溶け込んでいる。 本書はこのローマ化されたガリア、ガロ・ロマンGALLO-ROMAIN文化をたっぷり堪能できる。プロヴァンス旅行前にガロ・ロマンの基礎知識を詰め込んでおくのにもってこいの一冊。 |
ローマ人の物語〈27〉すべての道はローマに通ず〈上〉 ローマ人の物語〈28〉すべての道はローマに通ず〈下〉 |
|
塩野七生 | 新潮文庫 |
400年に及びパクス・ロマーナ(ローマの平和)を支えた社会の基礎設備。「インフラの父」とも呼ばれるローマ人の偉業の代表格ともいうべき、街道・橋・上下水道を徹底検証。豊富な写真や地図・イラストがうれしい。 |
世界歴史の旅 フランス・ロマネスク | ||
饗庭 孝男 | 山川出版社 | |
豊富な写真と明快な説明で10〜12世紀の中世ヨーロッパの歴史とロマネスクに関する理解が深まるとともに、フランス各地のロマネスク教会が紹介されている。プロヴァンス地方においては、「サン・トロフィーム大聖堂」「サン・ジル・デュ・ガール教会」「モンマジュール修道院」「ル・トロネ修道院」「シルヴァカンヌ修道院」「セナンク修道院」などが詳しく紹介されている。 |
テンプル騎士団の謎 | ||
レジーヌ・ペルヌー(著)、池上俊一(監修)、南條郁子(訳) | 創元社 | |
プロヴァンスをはじめ南仏には寄進荘園がたくさんあったし、プロヴァンス伯は13〜15世紀まで名目上とはいえエルサレム王の称号も兼ねており、テンプル騎士団とは無関係ではない。実際、マルグリット・ド・プロヴァンスは夫である聖王ルイ9世とともにエルサレムに遠征している。 |
カエサルを撃て | ||
佐藤 賢一 | 中公文庫 | |
時はBC58〜52年。古代ローマが「アルプスの向こうのガリア」を併呑したアレシアの戦いまでを描く。 ローマ帝国の支配からガリアを解放するために、乱立するガリア部族を束ねて立ち上がった若きカリスマ・ヴェルキンジェトリクス。 対するは、ルビコン川以前のカエサル。コンプレックスや嫉妬を持った冴えない中年オヤジとして描かれている。 本書はいわば敗者の視点による「ガリア戦記」だが、ガリア(フランスの古名)がローマ化される前の時代、フランス人の永遠のヒーローを描いた日本語による歴史小説は貴重。なお、映画「グレート・ウォーリアーズ」もヴェルキンジェトリクスを主人公にしている。ちなみに、この時すでにプロヴァンスはローマの植民都市となっている。 |
オクシタニア(上・下) | ||
佐藤 賢一 | 集英社 | |
時は13世紀。フランス史上の重大事件の1つ、アルビジョワ十字軍。
ローマ教皇とフランス北部諸侯の聖俗が、異端カタリ派の地・オクシタニア(オック語圏、現南仏・ラングドック地方)に牙をむく。教科書上では、これにより、パリ伯に過ぎなかったフランス王家が、領地や影響力を飛躍的に拡大したことになっている。 フランスに併呑される前だから、南仏はオクシタニア(オック語を話す地域)と呼ばれていて、地名をオック語読みにしたり、アルビジョワ十字軍総大将シモン・ドゥ・モンフォールやフランス王ルイ9世(後の聖王ルイ)らフランス勢には標準語を、無冠の帝王トロサ伯(フランス語でトゥールーズ)ラモン7世らオクシタニア勢には関西弁を使わせたりして、両者の違いを際立たせている。また、日本では馴染みの薄い異端カタリ派であるが、悲恋物語を通じて、キリスト教の「正統」カトリックと「異端」カタリ派の信仰の違いも理解できる。 プロヴァンスから見れば、主戦地はローヌ河の向こう側ではあるが、トロサ伯がプロヴェンサ(フランス語でプロヴァンス)侯を兼ねていたため、あながち無関係な事件ではない。 |
まだまだオススメ本あります→プロヴァンスに関する本
当サイト掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。 |