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3. プロヴァンスの歴史 

L'HISTOIRE
ポン・デュ・ガール水道橋  

地中海世界との玄関口であるプロヴァンスの歴史は、フランスで最も古いといえます。

Provenceという地名が「プロウィンキア・ロマーナ(ローマの属州) "Provincia Romana"」に由来しているように、紀元前6世紀からギリシアやローマの植民地として様々な影響を受け、中世においてはプロヴァンス伯の領地として独立性を保ち、15世紀末にフランス王国に吸収されるまで、独自の歴史を歩み、言葉や文化を培ってきました。

プロヴァンスだけでユネスコ世界遺産に5ケ所も登録されているなど、多くの史跡に恵まれているため、思わぬところで様々な遺跡に出会えます。つまり、歴史を知れば旅を数倍楽しめるはず。

ここではプロヴァンスで起こった主な出来事を、年代別に追います。

歴史年表(CHRONOLOGIE)

▼もくじ(時代別)
先史時代紀元前6世紀紀元前5〜4世紀紀元前4世紀紀元前2〜紀元5世紀3〜5世紀4〜6世紀6〜9世紀7〜8世紀9〜11世紀11〜12世紀12〜15世紀14世紀15〜18世紀18世紀19世紀〜20世紀初頭第2次世界大戦以降

▼もくじ(タイトル別)
先史時代リグリア人とフォカイア人ガリア人ギリシア人ローマ人キリスト教化民族大移動フランク人サラセン人と闇の時代封建制の成立ロマネスク建築プロヴァンス伯アヴィニョン捕囚とニース伯領黄金時代とフランス王国への併合フランス革命近代化の波とアイデンティティの目覚め第2次世界大戦以降

オススメ図書


プロヴァンスのユネスコ世界遺産
プロヴァンスの紋章フランスの歴代君主南仏旅行に役立つキリスト教の豆知識


コスケール洞窟の壁画先史時代(Préhistoire)

生命の営みを証明するものとしては、エクス盆地から白亜紀の恐竜の卵の化石のほか、マルセイユ南のカシ(Cassis)のコスケール海中洞くつ(Grotte Cosquer)から氷河期(推定BC27,000〜18,000年)の新人クロマニョン人の手によるものと思われる壁画 (Peintures rupestres/Grottes Ornées左:ペンギン、右:シカ)が発見されています。

小スケール洞窟の壁画水深30メートルの入口からさらに200メートル進んだところに壁画があり「海底のラスコー(Lascaux)」と話題になりました。さらにこれは、我が国の与那国島の海底遺跡と同様に、当時の海抜が今より30メートル以上は低かったことを示す画期的な発見です。21世紀に入って、続々と同様の洞くつ壁画が発見されています。

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紀元前6世紀 リグリア人とフォカイア人(Ligures et Phocéens)

フォカイア人小アジア(エーゲ海の現トルコ)から新天地を求めて船出した、ギリシア系フォカイア人の若きリーダー・プロティスが大船団を率いて到来。北イタリアからローヌ河までの地中海沿岸部一帯で生活していた先住のリグリア人の長の娘ジプティスと結婚し(右図)、豊かで防御に適した丘に囲まれた深い入り江に魅せられ、マッサリア(Massalia、「我らの塩」の意味、現マルセイユ)を建設。ギリシアの植民市としてプロヴァンスが歴史上に登場します。
しかし、BC542年、西地中海を制したカルタゴにより、マッサリアは陥落。ギリシア人は山間部に身を潜めます。ギリシャ人はこの西ヨーロッパ一帯(西は大西洋、南はピレネー山脈と地中海に接し、北の境界は英仏海峡、東はアルプスとライン川にかこまれた地域)を
「ガラティア」とよび、これがローマ時代には「ガリア」とよばれることになります。

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紀元前5〜4世紀 ガリア人(Gaulois)

ガリア人北方からケルト人が南下、先住のリグリア人と争いかつ同化するようになって、ガリア(GAULE)を形成しました。ライン河の南西、アルプス山脈の西、ピレネー山脈の北に位置する土地に、60ほどの部族が川や山を境界線として、共存していました。各部族はパグス(国)とよばれ、ドルイド僧という呪術的聖職者が指導していましたが、これを統一する権力はガリアには生まれませんでした。
なお、彼らは「ケルタエ」と自称していましたが、ローマ人が「ガリ(Galli)」と呼びました。後にアルプスを超えてピレネーに進出したカエサルの「ガリア戦記」によれば、トランサルピナ(Gallia Transalpina、アルプスの向こう側)に住むガリア人は、「長身で金髪・色白、集団行動をこのみ、大軍をなして戦闘する習性をもつ」とあります。

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アンフォラ壺
紀元前4世紀 ギリシア人(Grecs)

西地中海に進出したギリシア人が、アルル、アヴィニョン、ニース、バレンシアといった、ガリア南部からイベリア半島東南岸における貿易拠点(主に陶器の輸出)として植民市を築き、ギリシア文明が広がります。今なおこの地方の重要な産物である、オリーブ・ブドウの果樹栽培とワイン作りや金属器・陶器の技術が伝えられることによって、この地の最初の繁栄が始まりました。

地中海の海底には、ワインを入れて運んだ「アンフォラ壷(Amphore)」が数多く沈んでいて、各地の資料館で見ることができます。また、貿易港として栄えたニース(Nikaia)、アンティーブ(Antipolis)、マルセイユ(Massalia)、アルル(Arelate)のように、この時代に由来する地名も多いのです。

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紀元前2〜紀元5世紀 ローマ人(Romains)

ポエニ戦役でカルタゴを壊滅させて勢いにのるローマ帝国は、BC125年、イベリア半島と本国を結ぶ地域である地中海沿岸部を征服(ただし、ギリシア植民市とは同盟関係にあったようです)し、ローマの属州ガリア・ナルボネンシス(Gallia Narbonensis)を拠点に、前120年にはアルプスとピレネーを結ぶドミティアヌス街道を、前118年には市民植民市ナルボ(現ナルボンヌ)を築きました。

BC123年、ローマ執政官セクスティウスがギリシア植民市の要請に応じて、城市アントルモン(Entrement)の先住民リグロ・ガリア系サルビア族を撃破。このとき、豊かに水の湧く地に要塞を建設し、ローマ軍の最初の駐留地となりました。これが「アクアエ・セクスティアエ」(Aquae Sextiae「セクスティウスの泉」という意)とよばれ、現在のエクサンプロヴァンス(Aix-en-Provence)へと発展します。

カエサルとウェルキンジェトリクスBC58-51年にガリア人ウェルキンジェトリクス(Vercingetorix、BC72-46)が、バラバラだったガリア部族を率いてほう起したものの、52年に北ガリア・アレシアの戦いで破れ、ガリアの地方長官ユリウス・カエサル(Julius Caesar)が正式にガリア全域を制覇・併呑しました(右図および、小説「カエサルを撃て」、映画「グレート・ウォーリアーズ」参照)。以降、5世紀のフランク人クロヴィス即位までを「ガロ・ロマン(Gallo-Romain)時代」といいます。

ローマの属州「プロウィンキア PROVINCIA」が築かれると、「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」の元、植民市建設や道路網整備などローマ化が進められて、経済と芸術が目覚ましく発展しました。
ちなみに、ガリア内の他のローマ属州は後に独立し、ナルボンヌ属州だけがローマ直轄地として残ったために、プロウィンキアと言えばこの地を指すことになり、これが「プロヴァンス」の語源となりました。

このように、紀元前2〜1世紀にかけて、ガリアが次々にローマ化されていく中で、ギリシャ都市マルセイユはカエサルに敵対するポンペイウスに組みしたため独立を失い衰退します。
一方、紀元前46年、マルセイユ攻囲の際、カエサルを支援したアレラテ(アルル)に植民地が築かれ、紀元前1世紀、皇帝アウグストゥスが功績のあった老兵をオランジュやニームに入植させ、劇場などを建設。1世紀には、ニームに水を引くためのポン・デュ・ギャール(水道橋)が建設されました。
4世紀のコンスタンティヌス帝統治のもと、アルルは「ガリアの小ローマ」と称されるまでになり、最盛期を迎えました。

グラヌムの町オランジュの凱旋門、アルルやニームの闘技場(Arènes)、オランジュやアルルの劇場(Amphitéâtres)、エクスやアルルの共同浴場(Thérmes)、フレジュスの港(Port)、ヴェゾンの荘園(Villas)、バヴェ(BAVAI)やアルルの商店(Magazins)、グラヌム(GLANUM)の街、カヴァイヨンやフォルカルキエの「ドミティヌス街道」(Voie Domitienne)といった、ローマ本家に勝るとも劣らない壮大な遺跡・遺物が至る所に多数残っていて、各地の資料館に発掘物が保管されています。また、製塩技術もこの時代に伝わりました。

写真館「プロヴァンスのローマ遺跡

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3〜5世紀 キリスト教化(Christianisation)

キリスト教伝来313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令により、ローマ世界でキリスト教が公認。
314年、同皇帝がアルルで教会会議を開くと、アルル、マルセイユ、ヴェゾン、オランジュ、アプト、ニースの教会代表者が集まったとあることから、この時にはすでにキリスト教社会があったと想像されます。
迫害のあった頃から、土着のケルト系ドルイド教やローマの多神教に代わり、一神教であるキリスト教が、少しずつ浸透していたのでしょう。皇帝ネロ時代(37〜68)のキリスト教徒の墓がマルセイユで見つかっています。
サンとマリー・ドゥ・ラ・メールに漂着したマリアたちアルルのサントロフィーム大聖堂は、3世紀にアルルにキリスト教を伝導して、この地の初代司教になった聖トロフィムスに由来します。また、マルセイユには、415年に建てられたフランス最古のサンヴィクトール修道院
Monastère,Abbaye de Saint-Victor de Marseille)が現存しています。

なお、キリストの死後、迫害を逃れて、エルサレムからカマルグのサント・マリー・ドゥ・ラ・メール(Saintes Maries de la Mer)の地に、マグダラのマリアら3人のマリアらが流れ着いてキリスト教の布教に努めたという伝承も残っており、これが同地のジプシーの聖地の由来やタラスコンの怪獣退治伝説にもなっています。


写真館「マグダラのマリアを追って
南仏旅行に役立つキリスト教の豆知識

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4〜6世紀 民族大移動(Invasions barbares)

375年、バルト海付近で生活していたインド・ヨーロッパ語族のゲルマン人(Germains)が、中央アジアの遊牧民フン族の圧迫にあって西へ大移動を開始。ヴァンダル族(Vandales)、西ゴート族(Wisigoths)、ブルグンド族(Burgondes)、 東ゴート族(Ostrogoths)やフランク族(Franks)といったゲルマン系「異民族」(ギリシア・ローマ語を解さない人々)が、ガリア南部を続々と蹂躙しました。

418年には南ガリアに西ゴート王国が、443年にはローヌ河流域にブルグンド王国が成立。476年、西ローマ帝国の滅亡時には、ガリア北部にフランク族、南部に西ゴート族、東部にブルグンド族など、さまざまなゲルマン民族が侵入、混沌とした状況が続いていました。

クローヴィスの洗礼こうしたゲルマン民族の中で、長距離移動せず力を貯えていたフランク王のクロヴィス(Clovis,位481〜511)は、486年、ソワソンの戦いでローマ・ガリア総督を破り、フランク王国(カロリング王朝)を建設してパリを首都としました。
496年、妻の勧めでキリスト教(正統とされたアタナシウス派)に改宗、ローマ・カトリック教会と手を結びます(498年ランスで洗礼、以降この故事に習って歴代フランス王はランスで戴冠)。こうして国土の大多数を占めるラテン民族を巧みに支配し、また異教徒を撃退して領土を広げることができました。
さらに508年、西ゴート王国をイベリア半島へ駆逐してガリアの大半を制圧。ついで534年、ブルグンド王国を滅ぼしてガリア全域を手中に収めました。こうして536年、プロヴァンスは東ゴート族からフランク王国の勢力下におかれました。

ちなみにこのフランクが現フランスの国名の由来ですが、フランク族とは「投げ槍族」で、フランカfranka(投槍)を使ったことからその名がつきました。また、ブルグンドはブルゴーニュの地名の由来となっています。

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6〜9世紀 フランク人(Franks)

シャルルマーニュの戴冠シャルル・マーテルの後を継いだ小ピピン(Pépin le bref,位751〜768)は、751年に教皇の支持を得て王位につき、メロヴィング朝(Mérovingiens,481〜751)に代わってカロリング朝(Carolingiens,751〜987)を開きます。ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進し(教皇領の始まり)、関係を密にしました。

小ピピンの子シャルル・マーニュ/カール大帝(Charlemagne,?-814)は領土を広げ、平和とキリスト教への貢献で、800年にローマ教皇レオ3世より西ローマ皇帝に冠せられました(右図)。

カール大帝の死後、843年にヴェルダン条約(Traité de Verdun)のフランク王国3割譲により、プロヴァンスは孫のロタールのものとなった中部フランク(Lothaire、ロレーヌ地方の語源)・西ローマ皇帝領に属します。

855年 〜863年、ロタールの子シャルルにより初のプロヴァンス王国(ROYAUME DE PROVENCE)が成立。
領地を広げました。
870年 メルセン条約(TRAITE DE MERSEN)で、イタリアを除く中部フランクは東西フランクに割譲され、
現在のフランスの国土は西フランク王シャルル(カール2世)の所領となりました。
この境界線が、現在におけるフランス・イタリア・ドイツの国境の基礎となりました。
879年 フランク王シャルルの義兄であるブルゴーニュ公・アルル伯ボゾンがプロヴァンスの独立を宣言、
初めてプロヴァンスに世襲領主による王朝が現れます(〜1112年)。
890年 ボゾンの子ルイによってプロヴァンス王国が再編成

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7〜8世紀 サラセン人と闇の時代(Sarasins et Période d'ombre)

ゴルドの鷹の巣村ローマ帝国の支配が弱まってきた頃、イベリア半島からサラセン人(Sarasins)が地中海沿岸全域に侵攻して、フランス全土を1世紀に渡り占領していました。「サラセン人」とは、これ以降18世紀まで、アラブ人(Arabes)、ベルベル人(Berbères)、ムーア人(Maures)、チュルク人(Turcs)といった、フランス国土を侵略したイスラム教徒の総称として使われるようになりました。

カマルグの白馬711年、イベリア半島の西ゴート王国を征服したイスラム帝国(ウマイア朝)がピレネー山脈を超え、フランク国内に侵入。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク宮宰シャルル・マーテル(Charle-Martel,688?〜741)がこれを撃破します。
この敗戦によりサラセン人はフランス南東部まで撤退。サントロペ(St Tropez)近郊の山に立てこもり、周辺のプロヴァンスを侵略しました。そのため土地の者たちは、エズ(Èze)やヴァンス(Vence)といった、攻めにくく守りやすい山岳部頂上付近に、いわゆる「鷹の巣村(Villages perchés)」をつくり、堅固な塀で囲んで要塞化しました。

サラセン人によって破壊の限りが尽くされ、この時代の遺跡や文書がほとんど残されていないため「闇の時代」といわれていますが、その一方、サラセン人が当時最先端の薬草医学や松の種の活用法をもたらしたことも見落とせません。カマルグの名物となっている白馬も、サラセン人の置き土産とされています。

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9〜11世紀 封建制の成立(Féodalité)

フランク王国が分裂し強力な支配者が不在になると、北からヴァイキングのノルマン人が侵攻してノルマンディー公国を建国、東からは騎馬民族のマジャール人が西ヨーロッパ世界を脅かし、混乱と無秩序の時代となります。10世紀以降、領主権をめぐる争いが絶えなくなり、自衛の必要にせまられた領主間の主従関係(国王-諸候-騎士)の上に封建制が成立します。

934年 〜1032年、プロヴァンスがブルゴーニュ公国に併合
950年頃 ユーグ1世により、レ・ボー築城
956年 モンマジュール修道院完成
973年 プロヴァンス伯の始祖、アルル伯ギョーム(Comte Guillaume,le libérateur)がサラセン人を駆逐し、解放者とよばれました。
ちなみに「伯」とは、フランク中央集権下の地方行政官のことをいいます。
1032年 プロヴァンスはブルゴーニュ公国とともに、東フランク改め神聖ローマ帝国(Saint Empire Romain Germanique,962〜1806)の名目上の領土となり、ローヌ河西岸域ラングドックはトゥールーズ伯領に属しました。

吟遊詩人トルバドールこの頃、ムーア人の侵略から身を守るため、村々は高いところに作られて城塞化し、畑は痩せ細りました。一方、村の拡大にともなって、フランス南部においてオック語(Langue d'Oc/Occitan)が発達し、プロヴァンスもオック語圏となりました。ちなみにオックとは、はい(現代フランス語のOui)にあたる単語のことで、北方フランスではオイル(Oil)といったことからオイル語と言います。大まかに言うと、フランスの中央山塊でこの2つの言語はわかれていたようです。
→「プロヴァンスの生活」の「プロヴァンス語」を参照。

また様々な政治を背景にプロヴァンス独特の詩風が成立し、12世紀以後は各地を遍歴する吟遊詩人トルバドゥール(Troubadours)が宮廷に招かれて、騎士的恋愛をテーマにした叙情詩を歌いました。
 

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11〜12世紀 ロマネスク建築(Églises romanes)

セナンク修道院

世紀末的思想から、民衆の中で聖ヤコブを祀るイベリア半島のサンティアゴ・コンポステーラへの巡礼熱が高まると、その街道筋にクリュニー派の修道院が数多く建築されました。その建築様式は、後世「ローマ風の」という意味で「ロマネスク様式」と命名されました。
プロヴァンス地方では、世界遺産となっている巡礼路「トゥールーズの道」の出発点、アルルのサン・トロフィーム大聖堂やサン・ジルの教会、清貧を掲げたシトー派による修道院「プロヴァンスの3姉妹(セナンク、シルヴァカーヌ、ル・トロネ)」などが有名です。

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12〜15世紀 プロヴァンス伯(Comtes de Provence)と十字軍

1112年、 プロヴァンス伯領の相続者ドゥス(Douce)とバルセロナ公(Comte de Barcelone)レイモン・ベランジェ1世(Raymond-Berenger Ier)との婚姻により、新しいプロヴァンス伯家が誕生(〜1245年)。

 

1119年 十字軍の高まりとともに、聖地巡礼の保護と聖母防衛を目的にテンプル騎士団が創設され、諸候の寄進を受け、プロヴァンスを初め、フランス各地に支部が設けられました。(参考書籍「テンプル騎士団の謎」)
1125年 相続争いから、トゥールーズ伯にデュランス川以北のコンタ・ヴネサンとフォルカルキエが割譲され、プロヴァンス侯となりました。
1148年 清貧をモットーとするシトー派によりセナンク修道院建設
1160年 バルセロナ・プロヴァンス伯がアラゴン王として即位
1181年 プロヴァンス伯に従属していたオランジュ伯領が公国として格上げ。
第一回アルビジョワ十字軍
1190年 アヴィニョンのサンベネゼ橋完成

聖王ルイ9世の結婚1246年、フランス王ルイ9世の弟シャルル(Charles d'Anjou、アンジュー公・メーヌ公)と
プロヴァンス伯ベアトリスの婚姻よって、プロヴァンスはカペー・アンジュー家の所領となり、フランス国王の勢力下となります(〜1481年)。
安定と繁栄の時期を迎えますが、シャルル・ダンジューはナポリ王への野心に燃え、以降、歴代の当主においても、プロヴァンス経営は二の次になりました。
ちなみに、プロヴァンス伯・フォルカルキエ伯レーモン・ベレンゲール4世とベアトリス・ド・サヴォワ(Béatrice de Savoie)の娘たちが、次々に各国の王妃となります。長女マルグリットが聖王ルイ9世、次女エレアノールがイングランド王ヘンリー3世、3女サンチアがコーンウォール伯リチャード(一時的にドイツ王)、4女ベアトリスがシャルル・ダンジュー(シチリア王)に嫁ぎ、「プロヴァンスの4姉妹」と呼ばれました。

紋章にみるプロヴァンスの歴史」に詳説

1209年
1226年
法王イノンケンティウス3世の異端カタリ派討伐の命によるアルビジョワ十字軍で、フランス王フィリップ2世が、異端を庇護したトゥールーズ伯とベジェ・カルカソンヌ伯の領地に侵攻・没収し、ローヌ河対岸のラングドックまで王権を広げます。
(小説「オクシタニア(上・下)」参照)
1229年 聖王ルイ9世とトゥールーズ伯レーモン7世の協定によりアルビジョア十字軍が終結。
同年、プロヴァンス伯レーモン・ベレンゲール4世(Raymond Bernguer IV)の長女マルグリット(Marguerite)、聖王ルイ9世と結婚。
1236年 次女エレアノール(Eleanor)、イングランド王ヘンリー3世(King Henry III of England)と結婚。
1243年 3女サンチア(Sancie)、コーンウォール伯リチャード(Richard,Earl of Cornwall、ヘンリー3世の弟、一時的にドイツ王)と結婚。
1246年 前年に死去した父(レーモン・ベレンゲール4世)からプロヴァンス伯を継承した4女ベアトリス(Beatrice)、フランス王ルイ9世の弟アンジュー公シャルル(Charles d'Anjou)と結婚。
1248年 〜54年、聖王ルイ9世(Saint Louis IX)が、エグモルト(Aigues-Mortes)から第6次十字軍(CROISADE)でエジプト遠征に出航し、1270年、第7次十字軍のチュニス攻撃のさなか病没しました。十字軍は失敗しましたが、エグモルトは14世紀まで商港として発展しました。
1308年 グリマルディ家によって、モナコがジェノヴァ共和国から独立。
1309年 フランス王フィリップ4世が教皇クレメンス5世をアヴィニョンに動座(アヴィニョン捕囚、〜1377年)。
1312年 フランス王フィリップ4世は強大化したテンプル騎士団を弾圧し、これを解体して莫大な財産を没収しました。
1348年 〜50年、黒死病(ペスト)大流行
1349年 ドフィネ地方成立

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アヴィニョンの教皇庁14世紀 アヴィニョン捕囚とニース伯爵領(Papauté à Avignon et Comté de Nice)

1303年、アナーニ事件の後、フランス王フィリップ4世(美貌王)が、教皇選挙に干渉してクレメンス5世を選出。1309年、コンタ・ヴネサンに教皇庁(PAPAUTE)が移され、7代70年に渡って教皇はフランス王の支配下に置かれることになります(いわゆる、教皇のバビロン捕囚)。1377年に教皇庁はローマに戻されましたが、1417年までアヴィニョンにも教皇が立てられ教会大分裂(大シスマ)が続きます。
この政治劇によって、プロヴァンス伯から買収したアヴィニョンを中心として、経済の成長と文化・学問の発展をもたらしました。たとえば、シャトーヌフ・ド・パープ(「教皇の新城」の意味)において、カトリックの儀式に必要なワイン作りが始められ、現在でもこの地の高級ワインとなっています。

1382年 カぺー・アンジュー家プロヴァンス伯ジャンヌが殺されると、激しい相続争いの末、フランス王シャルル5世の甥のヴァロワ・アンジュー家ルイ2世がプロヴァンス領を引き継ぎます(〜1482年)。
1388年 ニースを中心としたヴァール川以東のプロヴァンスが、先の家督争いに嫌気がさして、地中海への野心を持つサヴォワ伯(神聖ローマ帝国の封建家臣)の庇護下に走り、「新しいプロヴァンスの土地」となり、1526年、「ニース伯爵領」と命名されました。

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15〜18世紀 黄金時代とフランス王国への併合

15世紀になると、ルネッサンスの庇護者でもあったルネ善良王(レナート)の善政下で、プロヴァンス伯領の首都エクサンプロヴァンスと城下町タラスコンが芸術の中心として繁栄し、プロヴァンスの黄金時代が到来します。その跡をついだシャルル3世には子がなく、死後はフランス王国へ併合されました。16世紀にはフランス語の使用が義務化され、プロヴァンス語と文化は衰退していきます。また、宗教戦争やペストの流行で、プロヴァンスは再び闇の時代を迎えます。

1409年 エクスに大学が創設
1426年 難攻不落をうたわれたレ・ボーがついに陥落、プロヴァンス伯領に吸収。
1434年 ルネ善良王即位(〜80年)。
1482年 プロヴァンス伯シャルル3世の遺言により、ルイ11世のフランス王国へ正式に併合。
エクスに議会を持ち、フランス王に任命される非世襲の統治者を持つ一地方となった。
農業と産業が発展して、海港マルセイユが繁栄。
1501年 エクスに議会が作られ、1539年の「ヴィレー・コトゥレの勅令」によって、行政文書にプロヴァンス語に代わってフランス語を用いるようになり、それまで日常生活に使われ独自の文学を育てたプロヴァンス語が脇へ追いやられて、独自の文化も影が薄くなりました
1562〜98年 宗教戦争では、マルセイユを中心とした地中海沿岸のカトリックと、ニームを中心としたローヌ西岸のプロテンスタントの間で、殺りくと報復が繰り返され、教会も破壊・略奪の対象になりました。
1503年 ノストラダムスノストラダムスがサン・レミで誕生(〜1566年)
→映画「ノストラダムス」参照
1588年 1629、1720年、黒死病(ペスト)の大流行。特に1720〜22年において、38000人が死亡。
1524年 〜28年、マルセイユ湾のイフ島にシャトーディフ築城
1624年 領土拡張を推し進めるフランス王ルイ13世が、対スペインの戦功として、モナコ大公にレ・ボーを割譲
17世紀 ルイ14世がトゥーロンを軍港とし、重要な軍事基地とする。
1713年 オランジュ公国がフランス王国に統合
1774年 サド侯爵マルキ・ド・サド(1740〜1814年)が、ラコスト(La Coste)およびマザン(Mazan)の領主となる(〜78年)。

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18世紀 フランス革命

フランス革命では、立憲王政派ミラボー(Mirabeau,1791年没)や、トゥーロンを拠点としたジロンド穏健共和派と、1792年に「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」を歌ってパリまで行進した義勇兵に代表される革命推進派の、ブルジョワジーと市民の意見にわかれました。このとき、不満が爆発した民衆によって、アヴィニョン教皇庁は外壁を残して徹底的に破壊されました。

1790年 国民議会により、プロヴァンス地方は解体され、「ブッシュ・デュ・ローヌ(Bouches-du-Rhône)」と「ヴァール(Var)」と「バス・アルプ(Basses-Alpes、現オート・プロヴァンス県)」の3県にわけられました。また、ドーフィネ地方が解体され、「オート・ザルプ(Hautes-Alpes)」ほか2県(ドローム、イゼール)が作られました。
1791年 コンタ・ヴネサン教皇領とアヴィニョン、およびモナコ公国領だったレ・ボーがフランス王国に統合
1793年 革命フランスは、ブシュ・デュ・ローヌ県のアプトとオランジュの両地区に、コンタ・ヴネサン旧領とオランジュ旧領を加えて「ヴォークリューズ県(Vaucluse)」を、サルディーニャ王国領のニースとモナコ公国を占領して「アルプ・マリティム県(Alpes-Maritimes)」を新設。
  ナポレオンが、フランス革命軍砲兵士官として、反革命陣営の拠点であったトゥーロン港を奪回し、名を挙げました。
1803年 ニース・モナコ間に大断崖道路「グラン・コルニッシュGrand Corniche」が敷設
1814年 パリ条約によって、ニースは、サヴォワやピエモンテとともに、サルディーニャ王に返還。
1815年 失脚したナポレオンが、幽閉されたエルバ島を脱出し、カンヌに上陸。再度の皇帝即位を目指すナポレオンが、400人余の兵士を伴ってグルノーブルを占拠し、パリへと向かいました(このルートは後に「ナポレオン街道」として整備されました)。結局ワーテルローの戦いで破れてセントヘレナ島に流され、「百日天下」といわれました。

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19世紀〜20世紀初頭 近代化の波とアイデンティティの目覚め

鉄道の開通や東方貿易の成功により、再び平和な時代が戻りました。

1830年 ニースに、避寒在留イギリス貴族らの出資によって、「プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の散歩道)」が完成
1839年 ポール・セザンヌセザンヌがエクスで誕生(〜1906)
1848年 マルセイユ・アヴィニョン間に鉄道開通
1854年 フレデリック・ミストラル作家ミストラル(Fréderic MISTRAL)が、フェリブリージュ(F»librige)というオック語保存運動を提唱し、オバネル(Théodore AUBANEL,1829-86)、ルマニーユ(ROUMANILLE)、ファーブル(Jean-Henri FABRE)といった作家や文化人らの尽力によって、共通言語としてのフランス語(北方オイル語系)に対するプロヴァンス文化保存への動きが活発になり、現在もアルプスからピレネー一帯の地域で続けられています。
>>「プロヴァンスの生活・方言」に詳説
1860年 サヴォワおよびニース伯爵領が、トリノ条約により、イタリア統一を目指すサルディーニャ王国から第二帝政フランスに割譲。
ヴァール県のグラースとサン・ポール・ド・ヴァンスの両地区と合わせて、「アルプ・マリティム県(Alpes-Maritimes)」が復活
1861年 マントンとロックブリュンヌがモナコ公国からフランスに割譲
1865年 モナコのカジノ開業
1869年 ドーデドーデが「風車小屋便り」を執筆
1888年 ゴッホゴッホがアルルに到着。
→映画「ゴッホ」参照
ステフェン・リエジャールが地中海岸を「コートダジュール(紺碧海岸)」と命名。
観光業の発展
1895年 リュミエール兄妹リュミエール兄弟が、マルセイユ近郊のラ・シオタで映画を世界初上演
1896年 ミストラルが、アルルに郷土民俗資料を集めたアルラタン博物館(Museon Arlatan)を創立
1899年 マルセイユにサッカークラブ「オランピック・ド・マルセイユ」が創設
1904年 ミストラルが「ミレイオ」(プロヴァンス語叙事詩)でノーベル文学賞を受賞。
その賞金で、アルラタン博物館が完成。
ニースにサッカークラブ「OGCニース」が創設
1910年 ラ・シオタにて、ペタンクが発祥
1912年 ニースにホテル・ネグレスコ建設
1924年 モナコにサッカークラブ「ASモナコ」が創設
1932年 カンヌからグルノーブルへの約350kmを「ナポレオン街道」(国道85号線)として整備・建設。
1936年 ワイン「シャトーヌフ・デュ・パープ」がAOC認定
1937年 ワイン「コート・ドゥ・ローヌ」がAOC認定

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第2次世界大戦以降

1942年 4月28日、マルセイユがナチス占領下から解放されて、文化と芸術が再び花開きました。
1946年 第一回カンヌ映画祭開催
1947年 タンドTendeとラ・ブリグLa Brigue がイタリアより割譲
1956年 モナコ公レニエ3世とグレース・ケリー結婚
1964年 地方分権化政策のもと、地中海沿岸南東部の県を集めて、新しい地域圏「プロヴァンス・コルス・コートダジュール(PCCA)」が作られた
1970年 マルセイユ・パリ間を結ぶ国道A6-A7線が開通。
コルシカ独立主義者の要求運動により、コルシカが単独地域圏に。
PCCAは残りの県で「プロヴァンス・アルプ・コートダジュール地域圏(PACA)」となった
1973年 ムージャンにてピカソ没(享年92歳)
→映画「サヴァイビング・ピカソ」参照
1974年 プロヴァンス・アルプス・コートダジュール地方議会が成立
1977年 ワイン「コート・ド・プロヴァンス」がAOC認定
1981年 マルセイユ・パリ間を結ぶTGV開通
1989年 ピーター・メイル「南仏プロヴァンスの12ヵ月」のベストセラーにより、プロヴァンスブーム到来
1993年 オランピック・ド・マルセイユがヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ優勝(フランス勢初)
1999年 12月1日より、PACA地域圏の紋章を正式採用
2001年 TGV地中海線開通
2004年 ASモナコがヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグ準優勝、オランピック・ド・マルセイユがUEFAカップ準優勝。
2010年 オランピック・ド・マルセイユが18年ぶり9度目のリーグ優勝、カップと合わせて二冠。

現在は、地中海沿岸域とローヌ河流域では人口集中現象が起きる一方、内陸の農村部では深刻な過疎化が進んでいます。工業、農業、貿易、観光が主な産業となっています。

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オススメ図書


プロヴァンス 歴史と印象派の旅
牟田口 義郎、佐々木 綾子、佐々木 三雄
新潮社 とんぼの本

タイトル通り、第一章がプロヴァンス各都市の歴史(オランジュ、アヴィニョン、ポン・デュ・ガール、ニーム、エーグ・モルト、グロー・デュ・ロワ、サント・マリー、アルル、レ・ボー、サン・レミ、エクス、マルセイユ、コート・ダジュール)、第二章が印象派の足跡(アヴィニョン、アルル、サン・レミ、モンペリエ、マルセイユ、エクス、サン・トロペ、カネ、ヴァロリス、アンティーブ、ビオット、カーニュ、サン・ポール、ヴァンス、ニース、ヴィルフランシュ、マントン、ボルディゲラ)を追う旅になっていて、写真は少々古く感じるが、文章が読みものとして興味深くとてもためになり、プロヴァンス旅行が待ち遠しくなる。


フランス世界遺産の旅 Voyage du patrimoine mondial de France
山田 和子 小学館

美しい写真と詳しい文章で、フランス世界遺産全28か所を巡る旅行ガイド。主要地図・アクセス情報入り。
南フランスに関しては「古代ローマの遺跡が数多く、中世ロマネスク様式、ゴシック様式の聖堂も多い」と紹介され、プロヴァンスでは「オランジュのローマ劇場と凱旋門」「アヴィニョン歴史地区」「アルルのローマ遺跡とロマネスク洋式建築群」「ローマ水道橋」および「サンティアゴ・コンポステーラの巡礼道・トゥールーズの道」が記載されている。


プロヴァンス 碧い海と碧い空と…
田辺 保 恒星出版

大阪市立大学名誉教授の著者が、前半部分では「ローマ時代」「キリスト教伝来」「中世」といった歴史や、後半部分では「ペトラルカ」「ミストラル」「ドーデ」「パニョル」「ジオノ」といった文学者などを通して、プロヴァンスの魅力を丁寧に紹介。
プロヴァンスの入門書として最適。旅行ガイドの次に買うならこれ。リピーターや留学生は必携。
ちなみに、イラストを担当した娘さんの作品は、Keiko Tanabe Web Siteに続々発表されている。


地中海歴史回廊
牟田口 義郎 ちくま学芸文庫

ヨーロッパ、アフリカ、アジアの三大陸に囲まれた地中海は、人類の歴史そのもの。本著は、中近東現代史・地中海文化史の大家の、半世紀に及ぶ体験を集めた歴史エッセー。イベリア、マグレブ、イタリア、ギリシア、トルコ、シリア、エジプトとともに、プロヴァンスについても50ページほど割かれている。
マルセイユの由来、「第二のイタリア」と呼ばれたローマ時代、中世とプロヴァンス伯、オランジュとオランダの関係、北欧人が作ったコートダジュールなどの歴史エピソードが詳しくも読みやすく凝縮されている。


ケルト文明とローマ帝国 ガリア戦記の舞台
フランソワーズ・ベック&エレーヌ・シュー (著)、遠藤ゆかり (翻訳)、鶴岡真弓 (監修) 創元社
フランス地中海沿岸一帯は、イタリア半島とイベリア半島を結ぶ重要な回廊「ヒスパニアの通り道」として、カエサルのガリア侵攻よりずっと前からローマの支配下にあった。だから、現在のプロヴァンスにはアヴィニョン、アルル、エクス、マルセイユなど多数のローマ遺跡が残されているし、プロヴァンスと言う名前自体にも名残りを見せるほどに、ローマ色がひときわ濃く、日常の中に溶け込んでいる。
本書はこのローマ化されたガリア、ガロ・ロマンGALLO-ROMAIN文化をたっぷり堪能できる。プロヴァンス旅行前にガロ・ロマンの基礎知識を詰め込んでおくのにもってこいの一冊。

ローマ人の物語〈27〉すべての道はローマに通ず〈上〉
ローマ人の物語〈28〉すべての道はローマに通ず〈下〉
塩野七生 新潮文庫

400年に及びパクス・ロマーナ(ローマの平和)を支えた社会の基礎設備。「インフラの父」とも呼ばれるローマ人の偉業の代表格ともいうべき、街道・橋・上下水道を徹底検証。豊富な写真や地図・イラストがうれしい。
プロヴァンスでは、ローマ遺跡が見所の1つだ。イタリア半島とイベリア半島を結ぶローマの重要な属州(プロヴィンキア・ナルボネンシス)として早くから栄えた南フランス地中海沿岸には、ドミティア街道(ローマ・ジェノヴア間の大動脈アウエリア街道の延長)が横断し、アルルには闘技場や劇場、ニームに水を運んだ水道橋、エクスやアルルに共同浴場などの遺跡が現存し、世界遺産にも指定されている。それらは全て「世界の首都」ローマをモデルにして作られた。いつでもどこでもローマ式。その点で、「すべての道はローマから発す」と言った方が、そのスゴさを理解しやすいかもしれない。


世界歴史の旅 フランス・ロマネスク
饗庭 孝男 山川出版社
豊富な写真と明快な説明で10〜12世紀の中世ヨーロッパの歴史とロマネスクに関する理解が深まるとともに、フランス各地のロマネスク教会が紹介されている。プロヴァンス地方においては、「サン・トロフィーム大聖堂」「サン・ジル・デュ・ガール教会」「モンマジュール修道院」「ル・トロネ修道院」「シルヴァカンヌ修道院」「セナンク修道院」などが詳しく紹介されている。

テンプル騎士団の謎
レジーヌ・ペルヌー(著)、池上俊一(監修)、南條郁子(訳) 創元社

プロヴァンスをはじめ南仏には寄進荘園がたくさんあったし、プロヴァンス伯は13〜15世紀まで名目上とはいえエルサレム王の称号も兼ねており、テンプル騎士団とは無関係ではない。実際、マルグリット・ド・プロヴァンスは夫である聖王ルイ9世とともにエルサレムに遠征している。
本書では、怪しげな憶測やオカルト的な伝説を排し、テンプル騎士団の成立・発展・活動・最期を、あくまでアカデミックな立場で解説。また、絵で読む世界文化史シリーズらしく、写真や図版をふんだんに使って理解しやすい工夫がしてある。翻訳も全く淀みがなく、テンプル騎士団の基本知識はこれ一冊で十分に押さえられる。


カエサルを撃て
佐藤 賢一 中公文庫
時はBC58〜52年。古代ローマが「アルプスの向こうのガリア」を併呑したアレシアの戦いまでを描く。
ローマ帝国の支配からガリアを解放するために、乱立するガリア部族を束ねて立ち上がった若きカリスマ・ヴェルキンジェトリクス。 対するは、ルビコン川以前のカエサル。コンプレックスや嫉妬を持った冴えない中年オヤジとして描かれている。
本書はいわば敗者の視点による「ガリア戦記」だが、ガリア(フランスの古名)がローマ化される前の時代、フランス人の永遠のヒーローを描いた日本語による歴史小説は貴重。なお、映画「グレート・ウォーリアーズ」もヴェルキンジェトリクスを主人公にしている。ちなみに、この時すでにプロヴァンスはローマの植民都市となっている。

オクシタニア(上・下)
佐藤 賢一 集英社
時は13世紀。フランス史上の重大事件の1つ、アルビジョワ十字軍。 ローマ教皇とフランス北部諸侯の聖俗が、異端カタリ派の地・オクシタニア(オック語圏、現南仏・ラングドック地方)に牙をむく。教科書上では、これにより、パリ伯に過ぎなかったフランス王家が、領地や影響力を飛躍的に拡大したことになっている。
フランスに併呑される前だから、南仏はオクシタニア(オック語を話す地域)と呼ばれていて、地名をオック語読みにしたり、アルビジョワ十字軍総大将シモン・ドゥ・モンフォールやフランス王ルイ9世(後の聖王ルイ)らフランス勢には標準語を、無冠の帝王トロサ伯(フランス語でトゥールーズ)ラモン7世らオクシタニア勢には関西弁を使わせたりして、両者の違いを際立たせている。また、日本では馴染みの薄い異端カタリ派であるが、悲恋物語を通じて、キリスト教の「正統」カトリックと「異端」カタリ派の信仰の違いも理解できる。
プロヴァンスから見れば、主戦地はローヌ河の向こう側ではあるが、トロサ伯がプロヴェンサ(フランス語でプロヴァンス)侯を兼ねていたため、あながち無関係な事件ではない。


まだまだオススメ本あります→プロヴァンスに関する本

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