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7.プロヴァンスの巨匠たち
画家、作歌、詩人、予言者、博物学者、サッカー選手、ミュージシャンなど、
プロヴァンス出身やプロヴァンスを活動の地とした、プロヴァンスゆかりの偉大な人物をピックアップ。
美術館や博物館や記念館なども残っているから、好きな巨匠の足跡をたどる旅も楽しい。
プロヴァンスゆかりの聖人については、番外編「旅行に役立つキリスト教の豆知識」>「聖人」
名画でたどるプロヴァンスとコートダジュールは、番外編「画家の見たプロヴァンス」
名字順(日本語読み)
あ か
さ た
な は
ま や
ら わ
オススメ図書
【表の見方】
名前 |
nom |
職業 年表(生没年地)
プロヴァンスでしたこと、、代表作など
>>> 記念館、公式HPなど |
あ
アイアム |
IAM |
ミュージシャン・グループ。(1991〜)
マルセイユを代表するHipHopラップ・グループ。89年に結成され、91年に1st"De
la Planete Mars"、93年2nd"Ombre
Est Lumiere"、97年3rd"L'
Ecole du Micro D'Argent"とアルバムを立て続けにヒットさせ、公的権力、戦争や差別への反発など、政治色や社会色の濃い歌詞&アメリカ嗜好の音楽で地位を築いた。95年にパリ郊外のゲットーを描いた映画「憎しみ
LA HAINE」サントラに参加、98年にマルセイユを舞台とした大ヒット映画「タクシー
TAXi」のサントラをプロデュース、メンバーのソロ活動(Akhenaton、Shurik'n、Freeman、Kheops)を経て、2003年に4th"Revoir
un Printemps"で復活、2004年に初のベストアルバム、2005年にはモニカ・ベルッチ主演の映画「スパイ・バウンド」のサントラに参加し、またマルセイユ・ドームでのライブアルバムをリリースするなど、フランス音楽シーンに欠かせないカリスマ的存在。
ロゴからもわかるように、メンバーは北アフリカやアラブ系など移民・他民族で構成され、言葉もいわゆるパリのフランス語ではなくマルセイユ訛り。いわゆる「フレンチ・ラップ」とは一線を画すため、「マルセイユ・ラップ」というジャンルと捉えていいのでは。パリのMC
Solaarが詩的で洗練されているのに対し、マルセイユのアイアムは攻撃的でストリートを体現している。
なお、メンバーは、Akhenaton(MC、シシリア&ナポリ),Shurik'en(MC、マダガスカル&レユニオン),Kheops(DJ、スペイン&フランス),Imhotep(アレンジ、アルジェリア),Freeman(MC&ダンサー、アルジェリア),Kephren(ダンサー、セネガル)の6人で構成されている。また、グループ名のIAMとは、Imperial
Asiatic Ma(アジア皇帝),Indenpendanistes Autonomes Marseillais(マルセイユ独立集団),Invasion
Arrivee de Mars(火星からの侵略者)など、幾通りかの意味があるが、頭文字3文字であえて英語で「アイアム」と読む。
私の留学時代('93-'94)には、"je danse le mia"が大ヒット。また、オランピック・マルセイユの応援歌として、発炎筒で煙るスタッド・ヴェロドロームでは、サポーターが"le
feu"を大合唱する。98年フランスW杯では、国中のサッカー・アンセムとなった。
公式HP、フレンチ・ラップ |
ヴァン・ゴッホ、ヴィンセント |
Van GOGH,Vincent |
画家(後期印象派)。1853(オランダ/フロートズンデルド)〜1890(パリ郊外オーヴェル・シュル・オワーズ)
画商、教師、牧師と職を変えながら27歳で画家を志す。貧しい農民などを描く暗かった作品は、パリに渡りロートレック、モネ、ドガなどと知り合い、印象派や日本の浮世絵に出会うことで、明るい色彩を得た。1888年、芸術家との共同生活を願いアルルに移住するが、友人、恋人などすべてに満たされず、次第に色と筆触が激しさを増して行った。ゴーギャンとの短い共同生活も、自らの耳を切り落とすという事件で幕を閉じた。ゴーギャンはアルルを去り、次第に狂気を帯びたゴッホは、精神の病に犯され、ついにピストル自殺を遂げる。
アルルに記念ギャラリーがある。また、モチーフとなったカフェ、精神病院、跳ね橋などがある。 |
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か
カントナ、エリック |
CANTONA,Eric |
サッカー選手。1966(マルセイユ)〜
ナイキのCMでもおなじみ。マンチェスター・ユナイテッドの7番といえば、ベッカムではなく、彼。フランス代表としてW杯出場は果たしていないが、マンチェスターUに数々の栄光をもたらした。観客にとび蹴りをかますなど、怒らせると誰も手がつけられない番長系カリスマFW
。気性の激しい性格で「キング」として君臨し、イングランドで初めて認められたフランス人プレーヤー 。ユニフォームの襟を立てて、南仏弁丸出しのキレ口調は、テレビの風刺人形劇「ギニョール」でも散々ネタにされていた。
96年欧州選手権のフランス代表から落選したことに激怒し、イギリスに帰化した。引退後は映画「エリザベス」や「クリクリのいた夏」などに出演するなど、俳優活動をしている。
オーセール(81〜85)→マルティーグ(85〜86)→オーセール(86〜88)→マルセイユ(88〜89)→ボルドー(89)→モンペリエ(89〜90)→マルセイユ(90〜91)→ニーム(91)→リーズ(92)→、マンチェスター(92〜97)。
http://soccer-movie.cool.ne.jp/can.htm
http://membres.lycos.fr/demoul/cantona.htm
|
ケリー、グレース(モナコ大公妃) |
KELLY,Grace Patricia(Princesse de Monaco) |
ハリウッド女優、モナコ大公妃。1929(米フィラデルフィア)〜1982(モナコ)
「真昼の決闘」(1950)でデビュー後、「ダイヤルMを廻せ」(1954)、「裏窓」(1954)、「泥棒成金」(1955)とヒッチコック作品に出演、クールビューティーとしてスターダムを駆け上がり、「喝采」(1954)でアカデミー女優賞を受賞。1955年のカンヌ映画祭に招待され、モナコ大公レーニエ3世(Son
Altesse Serenissime Le Prince RAINIER III)と出会うと、翌年1月5日に婚約を発表し、世界を驚かせた。同年4月19日に絢爛豪華な結婚式を挙げ、「上流社会」(1956)を最後に銀幕から引退。当時、ギリシアの海運王オナシスにカジノを実権を握られ、世継ぎがない場合にはフランスに併合されることになっていた小国モナコの危機的状況を救うべく、良妻賢母に努めた。キャロリーヌ王女(1957)、アルベール王子(1958)、ステファニー王女(1966)と3人の子宝に恵まれるも、1982年9月14日、娘のステファニー王女の運転する車にて交通事故死(享年52)。なお、エルメスの「ケリー・バッグ」は彼女の名前に由来する。>>>モナコの大聖堂内に墓所がある
2005年4月6日、夫レーニエ3世モナコ大公が死去(享年81)。
欧州王族で最長の在位期間(56年)だった。1923年5月31日、モナコのグリマルディ家に生まれ、祖父の前大公ルイ2世の死去を受け、26歳で即位。グレース・ケリーとの結婚という華麗なイメージに加え、カジノやF1グランプリなどで観光開発を進め、埋め立てで国土を2割増やすなど、世界2番目の小国ながら欧州を代表する保養地に育てた。海洋学の研究とクラシックカーや切手の収集が趣味で、海洋学者クストーのパトロンとなり、世界有数の切手コレクターだった。長男のアルベール皇太子(47)がその跡を継ぐ。
>>>海洋博物館、切手博物館、クラシックカー博物館がある。弔辞はこちら
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クストー、ジャック・イヴ |
COUSTEAU,Jaques-Yves |
海洋探検家、地球環境学者。1910(ボルドー)〜1997(パリ)
フランス海軍砲術官として勤務、海中世界に魅せられて研究を始め、1942年にスキューバ(商標名アクアラング)を開発。
1950年から海洋調査船「カリプソ」号で紅海をはじめアマゾン河から南極海まで世界の海を回り、1953年に著書「沈黙の世界」がベストセラー。1956年、同名映画で未知なる海中世界を初めて世界に紹介し、カンヌ映画祭グランプリとアカデミー賞をW受賞。
1957年に海軍を退役し、モナコ海洋博物館長に就任。深海潜水艦「ディープスター」などを完成。1962年から海底居住実験「プレコンチナン計画」を実施、1965年、水深100m地点に6人を約1ヵ月滞在させるのに成功。
また、1992年の地球サミットで環境破壊・海洋汚染を警告し、母国フランスの核実験再開を激しく批判した。「世界でもっとも有名にして愛されたフランス人」と称賛され、「海の恋人」として愛された。
>>>モナコに海洋博物館がある。
クストー財団 COUSTEAU
SOCIETY
関連本「Jacques
Cousteau the Ocean World」 |
コクトー、ジャン |
COCTEAU,Jean |
戯曲作家、評論家、詩人、画家。1889(パリ郊外メゾン・ラフィット)〜1963(パリ)
パリのリセ・コンドルセーを卒業後、プルーストらの芸術家グループと交際。1909年より芸術活動を開始、20年代より映画に興味を抱くようになる。30年の「詩人の血」で監督デビュー、以後映画の脚本家としても活躍しはじめる。45年に「美女と野獣」をルネ・クレマンと共同監督し、ルイ・デリュック賞を受賞。46年から63年に没するまでの間、カンヌ映画祭の名誉委員長を務めていた。
>>>マントンにコクトー美術館、マントン市庁舎内には「結婚の間」、ヴィルフランシュ・シュル・メールには「サン・ピエール礼拝堂」がある。 |
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さ
サド侯爵、ドナティアン・アルフォンソ・フランソワ
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de SADE,Donatien Alphonse Francois |
作家。1740(パリ)〜1814
別名マルキ・ド・サド(Marquis de Sade)は、1774-78年にラコスト(La Coste)という村の領主となり、マザン(Mazan)の一部も所有したが、その変態的奇行のため、半生を監獄で過ごした。獄中にて「ソドムの120日」「美徳の不幸」など性的苦痛と倒錯をテーマにした作品を残し、シュールリアリズムの祖とまであがめられた。
>>>ラコストに廃城が残っている。 |
シニャック、ポール |
SIGNAC,Paul |
画家(新印象派)。1863(パリ)〜1935
点描画
>>>サン・トロペのラノンシアド美術館に作品が収蔵されている |
ジダン、ジネディーヌ・ヤジッド |
ZIDANE,Zinedine Yazid
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サッカー選手。1972(マルセイユ)〜
フランスを世界王者(98年)とヨーロッパ王者(00年)、所属クラブ(レアル・マドリッド)をチャンピオンズリーグ優勝(02年)に導いた「フランスの新将軍」。名実ともに初代将軍プラティニを凌ぐ、究極の攻撃的中盤。
スター選手らしからぬ穏やかで謙虚な性格から「ジズー Zizou」の愛称で親しまれ、街の壁一面 に大きな肖像画が描かれるほど、マルセイユの英雄中の英雄にして、ピエ・ノワール(アルジェリア移民)の誇り。「マルセイユ式ルーレット」などの卓越したテクニックは、マルセイユ近郊のゲットー、ラ・カステラーヌでのストリートサッカーで培われた。不思議なことに地元の名門オランピック・ド・マルセイユではプレーしたことがない。
日韓W杯2002予選敗退と欧州選手権2004の準々決勝敗退を受け、 2004年8月12日、同国代表引退を発表するも、独W杯予選で苦戦する同国代表のために、2005年8月17日、国際親善試合コートジボワール戦でMFマケレレ、DFチュラムとともに代表復帰、フル出場1得点をマークして存在感を示した。2006年4月25日、「自分はもう役に立てない」と独W杯2006後の引退を表明。同年5月8日、ホーム最終戦(対ビジャ・レアル)でベッカムのクロスに反応してヘディングによる1得点を上げ、クラブチームのサポーターとの別れに華を添えた。
現役生活の最後を宣言して迎えた独W杯2006では、下馬評を覆しフランスを同年7月9日の決勝(対イタリア)に導き、PKによる先制点を決めたが、延長後半に相手DFに頭突きをして一発退場。PK戦の末、同国が敗退し、大会MVPを受賞したものの、有終の美を飾ることは出来なかった。
フランス代表デビュー1994年8月17日チェコ戦、キャップ数108、ゴール数31。FIFA最優秀選手3度受賞(1998,200,2003)。なお、約81億円の移籍金(2001年、ユヴェントス→レアル・マドリード)は未だ破られていない。
カンヌ(87〜92)→ボルドー(92〜96)→ユベントス(96〜01)→レアル・マドリッド(01〜06)。
公式HP
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ジプシー・キングス |
GYPSY KINGS |
ミュージシャン・グループ。
代々続くジプシー音楽家系の、レイエス兄弟とバリアルド兄弟たちで構成。カマルグのキャンピングサイトで生まれ育ち、子供の頃からストリートやレストランなどで演奏活動を続け、1987年のCDデビュー以来、「ジョビジョバ」や「ボラーレ」など数々のヒット曲を生み出してきた。哀愁のフラメンコギターとジプシー特有のだみ声ヴォーカルに、ロックもポップも融合した現代的でかつ懐かしいサウンドは、コート・ダジュールを訪れていた、ピカソ、ダリ、チャップリン、ブリジット・バルドーなどにも愛された。
公式HP
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シャガール、マルク |
CHAGALL,Marc |
画家(エコール・ド・パリ)。1887(ベラルーシ)〜1985(サンポール・ド・ヴァンス)
ロシアに生まれのユダヤ人であるが、後にフランス国籍を得る。あざやかな青や赤や黄色を用いて描かれた、花々や動物、抱擁する恋人達は、重力をこえて空を飛んでいる。スペイン内乱、ユダヤ人虐殺、2つの大戦を経た彼は、永遠の愛の神話を生み出そうとした。油彩の他、挿絵や版画、ステンドグラスなども手がけており、今世紀を代表する画家の1人として評価されている。
ニースに国立シャガール美術館がある。 |
セザンヌ、ポール |
CEZANNE,Paul |
画家(後期印象派)。1839(エクサンプロヴァンス)〜1906年(エクサンプロヴァンス)
エクサンプロヴァンスの裕福な家に生まれ、同級生に後の小説家ゾラがいた。パリに出て印象派の画家との親交を深め、印象派展に出品する。しかし、モネのような光や色の追求ではなく、ものの形を純粋な造形のモチーフとして考え、堅牢な作品を制作しようとした。後期印象派の代表にとどまらず、20世紀の美術思潮に最も大きな影響を与えた一人と言える。「自然を円筒と球と円錐によってとらえる」という有名な言葉を残した。
エクスにアトリエがある。サント・ヴィクトワール山はエクス郊外20キロ。 |
ゾラ、エミール |
ZOLA,Emile |
作家・ジャーナリスト。1840(パリ)-1902(パリ)
パリに生まれ、幼少期を過ごしたエクサンプロヴァンスで、セザンヌと親交を結ぶ。
「ジェルミナル」
>>>エクスとサント・ヴィクトワール山の間にゾラの散歩道がある。 |
た
ドーデ、アルフォンス |
DAUDET,Alphonse |
作家。1840(ニーム)-1897(パリ)
地元での教職をやめてパリに上京すると、ナポレオン三世の政治顧問ド・モルニー侯爵の秘書を務めたが、その死後、執筆業に専念。自然主義文学に属し、ゾラやフロベールと親交が厚かった。
1866年「風車小屋便り」Lettres
de Mon Moulin (「アルルの女」を含む)や1872年「陽気なタルタラン」(Tartarin de Tarascon)
など、プロヴァンスを舞台にした作品を発表。1875年「月曜物語」Contes du Lundi(「最後の授業」を含む)では普仏戦争下の愛郷心を描くなど、成功を収めた。
>>>サンレミ郊外フォンヴィエイユに風車小屋がある。
※写真右はアルフォンス・ドーデと名付けられたバラ(クリーム〜イエロー色、微香、四季咲き大輪・アンティークタイプ)。 |
トゥールーズ・ロートレック、アンリ |
de TOULOUSE-LAUTREC,Henri |
画家(後期印象派)。1864(アルビ)〜1901(マルロメ城)
トゥールーズ伯爵家に生まれるも、幼少期に両足を骨折し下半身の成長が止まる。ボヘミアン革命のパリ・モンマルトルに住みつき、毎晩のようにステッキをついては、踊り子や娼婦や街の女たちなどの情景を描き続けた。禁断の酒「アブサン」に溺れ、強制入院させられたるも他界した。広告メディアのひとつであるポスターを、石版画で芸術のレベルまで引き上げた功績は大きい。
アルビにトゥールーズ・ロートレック美術館がある。
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な
ナポレオン |
NAPOLEON I |
政治家。
1793年、フランス革命軍砲兵士官として、反革命陣営の拠点であったトゥーロン港奪回し、名を挙げた。
1815年、いったん失脚し幽閉されたエルバ島を脱出し、カンヌに上陸。「百日天下」といわれる再度の皇帝へと向かったナポレオンが400人余の兵士を伴ってパリへと向かった。
>>>1932年、カンヌからグルノーブルへの約350kmを「ナポレオン街道」(国道85号線)として整備・建設。 |
ノストラダムス |
NOSTADAMUS |
医者、預言者。1503(サンレミ・ド・プロヴァンス)〜1566(サロン・ド・プロヴァンス)
本名はミシェル・ド・ノートルダム(Michel de NOTREDAME)。 裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、若い頃から、化学、数学、天文、占星学、錬金術などに詳しく、アヴィニョン大学で法律を学んだ。のち、モンペリエ大学で医学を学び、各地を回っては、独自の消毒方法でペストの蔓延を喰いとめた。しかし、当時としては開明的だったため、教会権威から異端視され、身を隠すため放浪を余儀なくされた。1547年からサロンに定住し、暦を作成するようになり、1555年、350の詩篇の形でつづった予言書「諸世紀」を発行。この評判を聞きつけたカトリーヌ・ド・メデシスに気に入られ、王家の庇護を受けた。
サンレミに生家、サロンに資料館がある。
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は
パニョル、マルセル |
PAGNOL,Marcel |
作家。1895(オバーニュ)〜1974(パリ)
オバーニュで生まれ、マルセイユで学業を修めた、フランスの国民的作家。プロヴァンス地方に関する印象的な作品を次々に発表。「フロレット家のジャン」「泉のマノン」(映画「愛と宿命の泉」、1986)、「父のお手柄」(映画「プロヴァンス物語・マルセルの夏」、1990)、「母のお屋敷」(映画「プロヴァンス物語・マルセルのお城」、1991)が映画化されヒットした。1946年、アカデミー・フランセーズ会員となる。マルセイユ・トレイユ墓地に眠る。 |
ピカソ、パブロ |
PICASSO,Pablo |
画家(キュービズム)、芸術家。1881(スペイン/マラガ)〜1973(ムージャン)
アンティーブにピカソ美術館、ヴァロリスに国立ピカソ美術館がある。
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ファーブル、ジャン・アンリ
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FABRE,Jean Henri |
博物学者。1823(サン・レオン)〜1915(セリニャン)。
中学の教師の傍ら、動植物、鉱物・化石など、ありとあらゆる物の観察と採集に没頭。1910年に完成した全10巻の「ファーブル昆虫記」は日本においてあまりにも有名だが、意外や意外、フランスでは知っている人が少ない。そのほか、鉱石の図鑑やキノコの図鑑を著したり、プロヴァンス語の詩作などもしている。
>>>オランジュ近郊セリニャンに記念館がある(2005年まで改装中)。 |
ブラック、ジョルジュ |
BRAQUE,Georges |
画家(キュービズム)。1882(アンジャントゥイユ)〜1963
ピカソと共にキュビスムの創始者の一人であり、第一次大戦までは中心人物であった。大戦後は、対象の再現性を保ちながらそれを自由に分解し再構成する手法により、洗練された構成的画風を確立する。 |
ま
マティス、アンリ |
MATISSE,Henri |
画家(フォービズム)。1869(ピカルディ)〜1954(ニース)
はじめは法律を学ぶが、まもなく画家を志す。22歳からパリでギュスターヴ・モローの指導を受け始める。この頃、ルオー、マルケ、ピサロらと知り合う。また、ルーヴル美術館で名作の模写を多数行う。1903年のサロン・ドトンヌ設立に参加する。1905年の同展では、ドラン、ヴラマンク、ルオーらと共に、その大胆な色彩と激しい筆致が注目を集め、半ば嘲笑を込めて「フォーヴ」と呼ばれた。1909年にロシアのシチューキン家のために大作〈ダンス〉を、また32年にはアメリカのバーンズ財団のために壁画〈ダンス〉を制作するなど、各地で活躍する。また1921年からは、パリとニースを往復する生活を送る。1940年のパリ陥落の後、ブラジル渡航を試みるものの南仏に留まる。戦後も、切り絵、挿絵本、タピスリーなど幅広い活動を続け、特にヴァンスの礼拝堂の装飾は、彼の才能の集大成と言われる。20世紀美術においてピカソと匹敵する成果を残した一人といえる。
ニースのホテルの一角をアトリエとして使っていた。
ニースにマティス美術館、ヴァンスに手がけたロザリオ礼拝堂がある。 |
ミラボー伯爵 |
MIRABEAU,comte de |
政治家。1749(パリ)〜 91(パリ)
フランス革命の発端となった三部会に、マルセイユとエクサンプロヴァンスの両地区で選出され、貴族であったが、エクスの第三身分代表として会議に臨み、雄弁と政治的才能で名声を博した。イギリス型の非常に穏健な立憲君主制を主張し、議会派と国王の融合に尽力した。「私の死はフランス王政の崩壊だ」
は彼の臨終の言葉であった。
>>>エクスの目抜き通りに彼の名前がついている(クール・ミラボーCours Mirabeau)。 |
モンタン、イブ |
MONTAND,Yves |
歌手、俳優、文化人。1921(イタリア/モンスマーノ)〜
91
シャンソンの名曲「枯葉」、「ア・パリ」、「セ・シ・ボン」、映画「恐怖の報酬」(1953)、「恋をしましょう」(1960)、「愛と宿命の泉」(1986)など数多くの作品で知られる、20世紀を代表するエンターテナー。
23年に一家でムッソリーニ政権下のイタリアからフランスに亡命。マルセイユで青少年期を過ごし、39年頃から歌い始め、パリでエディット・ピアフに見出され、45年銀幕デビュー。53年「恐怖の報酬」に主演、カンヌ映画祭グランプリを受賞。幅広い役柄で活躍すると同時に、各国でコンサートを開いて成功させた。51年大女優シモーヌ・シニョレと結婚。アメリカに渡った時は、マリリン・モンローとも噂になった。91年、「IP5/愛を探す旅人たち」の撮影直後に心臓発作で死去。 |
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や
名前 |
nom |
職業 年表(生没年地)
プロヴァンスでしたこと、、代表作など
>>> 記念館、公式HPなど |
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ら
ラクロワ、クリスチャン |
LACROIX,Christian |
ファッション・デザイナー。1951(アルル)〜。
美術館のキュレーターになるべく、大学でアートを専攻し学位を取得。大学院で17世紀のコスチュームについて学ぶためにパリへ。
ソルボンヌ大学卒業後、1978年、エルメス社でアクセサリーのデザインを担当。1980年、ギィ・ボーランのアシスタントデザイナー、1981年から87年までジャン・パトゥーのオートクチュールのチーフデザイナーに就任、CFDA(The
Council of Fashion Designers of America)の最優秀外国人デザイナー賞を受賞。 87年、LVMHグループ傘下に入り、独自のオートクチュールを発表、翌年プレタポルテを発表、最高栄誉の「デ・ドール賞」を受賞。
2003年春夏シーズンから「エミリオ・プッチ」のデザイナーに就任。その作品は、生まれ育ったアルルの風土を色濃く反映し、好んで用いるプリントや色遣いは、インド更紗に端を発する独特なプロヴァンス風織物がルーツだといわれている。2005年、エールフランスの18年ぶりの制服一新のデザインを担当。
公式HP |
リュミエール兄弟 |
LUMIERE,les freres |
兄
オーギュストAuguste Marie Louis:1862(ブザンソン)〜1954
弟 ルイLouis Jean:1864〜1948
現代の映画の基本形となるシネマトグラフィ(cinematographe)の発明者で、エジソンと並ぶ「映画の父」。 リヨンで写真関係の機材を製造販売する仕事をしていたが、1891年にエジソンに刺激を受け、1893年にスクリーン投影方式の映写機をつくり、1895年9月、ラ・シオタで世界初の映画上映に成功。同年12月28日、世界初の商業映画をパリのカフェで上映。映画生誕の日となった。 |
ルノワール、ピエール・オーギュスト |
RENOIR,Pierre-Auguste |
画家(印象派)。1841(リモージュ)〜1919(カーニュ・シュル・メール)
>>>カーニュ・シュル・メールに晩年をすごしたアトリエがある。
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レジエ、フェルナン |
LEGER,Fernand |
画家(キュビスム)。1881(アルジョンタン/ノルマンディ)〜1955(ジフ・シュル・メール)
ピカソやブラックとともにキュビズムとみなされるが、活動は絵画だけにとどまらず、ル・コルビュジエの建築の壁画を多く手掛ける。1949年にはアンティーブ郊外のビオにて陶芸を始めた。
ビオに国立レジエ美術館がある |
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わ
名前 |
nom |
職業 年表(生没年地)
プロヴァンスでしたこと、、代表作など
>>> 記念館、公式HPなど |
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プロヴァンス
歴史と印象派の旅 |
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牟田口 義郎、佐々木 綾子、佐々木 三雄 |
新潮社 とんぼの本 |
タイトル通り、第一章がプロヴァンス各都市の歴史(オランジュ、アヴィニョン、ポン・デュ・ガール、ニーム、エーグ・モルト、グロー・デュ・ロワ、サント・マリー、アルル、レ・ボー、サン・レミ、エクス、マルセイユ、コート・ダジュール)、第二章が印象派の足跡(アヴィニョン、アルル、サン・レミ、モンペリエ、マルセイユ、エクス、サン・トロペ、カネ、ヴァロリス、アンティーブ、ビオット、カーニュ、サン・ポール、ヴァンス、ニース、ヴィルフランシュ、マントン、ボルディゲラ)を追う旅になっていて、写真は少々古く感じるが、文章が読みものとして興味深くとてもためになり、プロヴァンス旅行が待ち遠しくなる。 |
世界・美術の旅ガイド 南フランス プロヴァンスとコート・ダジュールの美術館と画家たち |
|
キークリエイション |
美術出版社 |
ゴッホ、セザンヌ、ピカソ、ルノワール、マティス、シャガールといった、南フランスを愛した芸術家たちの足跡をたどりながら、個性的な美術館・博物館めぐりをするのにもってこいの一冊。きれいな写真が豊富。表裏のどちらからも読むことができ、表からは美術館情報や地域ガイド・旅情報、裏からは南フランスを愛した芸術家たち、となっている。 |
プロヴァンス 碧い海と碧い空と… |
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田辺 保 |
恒星出版 |
大阪市立大学名誉教授の著者が、前半部分では「ローマ時代」「キリスト教伝来」「中世」といった歴史や、後半部分では「ペトラルカ」「ミストラル」「ドーデ」「パニョル」「ジオノ」といった文学者などを通して、プロヴァンスの魅力を丁寧に紹介。
プロヴァンスの入門書として最適。旅行ガイドの次に買うならこれ。リピーターや留学生は必携。
ちなみに、イラストを担当した娘さんの作品は、Keiko
Tanabe Web Siteに続々発表されている。 |
プロヴァンスの少女・ミレイユ Mireio |
|
フレデリック・ミストラル(著)、杉 冨士雄 (翻訳) |
岩波文庫 |
著者ミストラルはプロヴァンス文化保存運動の提唱者で、プロヴァンス語による叙事詩の本作(1858年)で、1904年にノーベル文学賞を受賞し、地方文化の大切さを世に浸透させた。プロヴァンス民俗資料をコレクションし、ノーベル賞の賞金で完成させたアルルのアルラタン民族博物館にて、それらを展示・公開している。ちなみに、ミストラルはプロヴァンスの強烈な北風ミストラルと同じ名前であることに戸惑っていたらしい。 |
風車小屋だより Lettres
de mon moulin |
|
アルフォンス・ドーデ(著)、辻 昶(訳)国土社 |
19世紀の自然主義派作家ドーデは、フォンヴィエイユに風車小屋を買い、ときどきパリから訪れては詩作をしていた。本書は、風車小屋とその周辺を舞台とする短いエッセイや小説をまとめた短編集にして、彼の代表作(1866年)。ビゼーのオペラ「アルルの女」の原典もここにあり、「詩人ミストラル」に関する描写もある。また、プロヴァンスを舞台にした3部作「タラスコンのタルタラン」がフランスで成功を収め、日本では普仏戦争を題材にした「最後の授業」が有名。 |
ファーブルの昆虫記 Souvenirs
entomologiques |
|
ジャン=アンリ・ファーブル(著)、大岡 信(訳) |
岩波少年文庫 |
プロヴァンスの偉大な博物学者ファーブルによる、全10巻に及ぶ自然の中の詩情豊かな文学(1910年)。「シートン動物記」と並び、児童書としておなじみで、世界中に昆虫ファンを生み出した。「フンコロガシ」や「セミ」など、大人になった今でも読み返すとなかなか面白く、新たな発見があってうれしい。ミストラルとともにプロヴァンス文化保存運動の推進者だった著者は、プロヴァンス語で詩や歌を残している。原文で読んでみたい |
木を植えた男 L'homme
qui plantait des arbres. |
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ジャン・ジオノ(原作)、フレデリック・バック(絵) |
あすなろ書房 |
ひたすらどんぐりを植え続け、プロヴァンスの荒地に緑をよみがえらせた老羊飼いの童話風短編。同名の短編アニメ映画が1987年アカデミー賞短編映画賞受賞して、原作者ジオノの作品として世に認知された。パステル画のような美しく優しいタッチで幻想的な世界が広がる。本作品以外では、小説「河は呼んでいる」が同名映画の原作として名高い |
屋根の上の軽騎兵 Le
hussard sur le toit |
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ジャン・ジオノ(原作)、酒井 由紀代 (訳) |
河出書房新社 |
時は19世紀。コレラが大流行中のプロヴァンス。祖国イタリアの独立のために奔走する軽騎兵の愛と冒険。自然描写が詩的で素晴らしいジオノの代表作。映画「プロヴァンスの恋」(1999年)の原作。 |
父の大手柄―マルセルの夏 La
gloire de mon pere |
マルセル・パニョル(著)、佐藤 房吉 (翻訳) |
評論社文庫 |
映画「プロヴァンス物語・マルセルの夏」の原作小説、20世紀を代表する小説家・劇作家パニョルの自叙伝(1957年)で、プロヴァンスがあふれる作品で、たちまちプロヴァンスの虜になってしまう。本作以外では、「お母さんのお城」(1957年)は映画「プロヴァンス物語・マルセルのお城」の原作、「ジャン・ド・フロレット」(1962年)と「泉のマノン」(1962年)が映画「愛と宿命の泉」(1986)の原作として名高い |
モンテ・クリスト伯 Comte
de Monte-Cristo |
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アレクサンドル・デュマ (著)、山内 義雄 (訳) |
岩波文庫 |
知人たちの陰謀で、14年間の牢獄生活を余儀なくされたマルセイユの船乗りエドモン・ダンテスが、脱獄を果たし、莫大な財宝を手に入れて、モンテ・クリスト伯と名乗ってパリの社交界に登場し、壮大な復讐劇を開始する、全7巻の長編大作。何度か映画化されている |
南仏プロヴァンスの12ヶ月 A
Year in Provence |
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ピーター・メイル(著)、池央耿(訳) |
河出文庫 |
ご存知、1990年代のプロヴァンス・ブームの火付け役、世界で100万部を売り上げたベストセラー。1989年度イギリス紀行文学賞受賞。リタイアしてリュベロンに移り住んだイギリス人元広告マンによる、プロヴァンスでのスローライフ賛歌。移住して1年は名所といわれる場所を訪れたことがなかったほどに、プロヴァンスの田舎暮らしを愛した |
南仏プロヴァンスの木陰から Toujours
Provence |
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ピーター・メイル(著)、小梨直(訳) |
河出文庫 |
「南仏プロヴァンスの12ヶ月」の続編。生きることの楽しさがあふれ出る、リュベロンでのリタイア生活記。「グルメ二本勝負」「パスティス講座」「シャトーヌフ・デュ・パープ試飲の心得」など、もくじを見るだけでもワクワクしてくる。ちなみに、本著の成功によるブーム到来で皮肉なことに静かな田舎暮らしを壊されてしまった著者は、すでにイギリスに戻って出版業を営んでいるとか |
Jacques
Cousteau the Ocean World |
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Jacques Ives Cousteau |
Abradale/Abrams |
7つの海を探検・調査した「海の恋人」クストーによる、海中写真集。1953年、著書「沈黙の世界」がベストセラー。1956年、同名映画で未知なる海中世界を初めて世界に紹介し、カンヌ映画祭グランプリとアカデミー賞をW受賞。アクアラングは彼の開発によるもので、ダイビングをやっている人は彼に感謝。モナコ海洋博物館・水族館の館長も勤めた |
ル・コルビュジエを歩こう―現存36作品完全ガイド-フランス編
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吉野 弘 (著) |
エクスナレッジ |
友達がマルセイユのユニテ・ダビタシオンに住んでいて、初めて知ったル・コルビュジエの名前。プロヴァンスには4つの作品(マルセイユ、ラ・サントボーム、トゥーロン郊外、カップ・マルタン)と彼の墓が残されている。
本書は、偉大な近代建築家ル・コルビュジエの、フランス国内に残る全ての遺産を旅するためのガイドブック。前半は写真とともに住所とアクセス方法まで載っていて親切。後半は作品自体にスポットを当てて、スケッチとともに詳しく解説されている。文庫本サイズで持ち歩きにも便利。この本にル・コルビュジエの全てが丸ごと詰まっていて、足跡をたどるのにもってこい。 |
まだまだオススメ本あります→プロヴァンスに関する本
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